夢と希望と(虹原太助)

戸田ゼミコラムのアーカイブです。このコラムはすでに連載を終了されています。

「7.皆勤残念賞の笑い
先週書いた理研光学の場合も、労働組合がないが、日本オイルシールにも
労働組合がない。
では福利施設は、というと、藤沢工場を一度見たことのある人は、
なるほどとうなずくにちがいない。
藤沢工場は真ん中に大講堂や食堂や売店や図書室があり、
世上一流会社と目されている他社でも、
はたして思いきった設備をしているところが何軒あるだろうか。
この福利施設を運営しているのが双筍会という従業員の組織である。

双筍会とは
『経営者も従業員もともにタケノコだから、互いに
しっかりやろうじゃないか』
という趣旨から名づけられたものだそうである。
双筍会が発行している隔月間の機関誌名が『種トマト』。
まるで農芸雑誌のような名前だが、副社長がすっかり忘れていたコトバを
従業員のほうが覚えていて、何年かたって機関誌をつくるときに
命名したものという。
このほか従業員が株を持っていることや、皆勤賞に
奥さんの分のあることや、それから、
『貴殿は数分間の遅刻により皆勤賞の資格を失ったが』
という残念賞まであることなど、労資対立がお家芸の大会社に
見せてやりたいくらい労資のあいだが和やかに行っている。

『ふつう、どこのメーカーでも外注品は二社もしくは三社から納入させるのが
常識になっています。
それは万が一、ストライキでもおこったときに、
部品不足をきたさない用心からです。
しかし、オイルシールだけは、どこの車輛メーカーでも、
わが社だけになっています。
ストライキの心配がないと信用されているからだと思います。』

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8.兄貴は授業料がとれない
こんにち、一台の自動車には九つか十のオイルシールが使われている。
消耗品である点はピストンリングと似ているし、
直接消費者に売られない点では、トランジスタ・ラジオに対する
ミツミ・パーツ(ミツミ電機工業株式会社)の関係によく似ている。

しかし、オイルシールの需要は自動車だけでなく、
ブルドーザーのような産業車輛、旋盤のような工作機械、
水を吸いあげるポンプ、はては製鉄会社の圧延機にまでとりつけられている。

価格も一個十円以下のものから、一個数十万円のものまである。
総売上のうち自動車関係が四〇%、他が六〇%という比率になっている。
これらはすべて受注によって製造するので、種類は雑多であるが、
売れ残りということがない。

『いったい、オイルシールの需要はどの程度で
限界の来るものですか?』
『藤沢工場が業績に寄与しはじめましたので、本社の月産三百万個、
藤沢工場が三百万個、計六百万個を月産していますが、
現に需要に追いまくられています。
藤沢が完全に稼働しはじめたら、おそらく秋には
千万個を突破すると思います』

限界の話よりも、今はいかにして需要に追いつくか、
という段階にあるらしい。

『ですが、いつかは壁にぶっつかるときが来るでしょう。
勝手なことを申すようですが、私はオイルシールは、
資本金が今の四倍程度になるまではまあ問題ないが、それから先は
どの方向へ伸びるかによって、社運が違ってくるんじゃないかと
思っているんです』

私がそう言うと、鶴さんは、
『おっしゃるとおりです。
この十月で十年計画が完了するので、目下、新しい五ヶ年計画を
練っているところです。
カール・フロイデンベルヒとの提携も、そういった意味を持っており、
近々藤沢工場の空地にブルコラン(人造樹脂)の工場建設をはじめます』

西独最大のオイルシールおよびパッキングのメーカー、
カール・フロイデンベルヒ社との技術および資本提携は、
昨年三月に行なわれたものであるが、同社がオイルシールの株式の
四分の一を持つという条件以外は特許権使用料も無料なら、
バイエル社の特許権使用料もフロイデンベルヒが支払ってくれるという
夢のような話なので、当時、通産省から、
『何か裏契約があるのではないか』
と、痛くもないハラをさぐられたものであった。

                                          .
9.お父さん有難う
これにも逸話があって、使用料の話が出た時、鶴さんは、
『弟に勉強を教えるのに、兄貴が授業料をとるの?』
と聞いたところ、
『タダにしよう』
ということになったそうである。
それより面白いのは、交渉に行っているあいだじゅう、
鶴さんはフロイデンベルヒの爺さんを、
『お父さん』
と呼んで親しんだ。
はじめはなかなか交渉難航であったが、いよいよサインまでこぎつけたとき、
鶴さんは三、四人、人がいるところで、
『お父さん、有難う』
と言った。
そしたら、フロイデンベルヒの社長がなにやら言いかえした。
とたんに皆がドッと笑った。
あとで周囲の人に聞いたら、
『お前のほうがお父さんに見えたよ』
と社長は言ったのだそうである。

この駄々ッ子にも似た強引さによって、オイルシールは提携に成功し、
目下、入れかわり立ちかわり技術者がドイツへ技術の習得に行っている。
バイエルとフロイデンベルヒの契約によって、
バイエル社の技術を無料で使えるようになったので、
ブルコランという人造樹脂を第一弾として、オイルシールは
化学産業方面へ進出することになる模様である。
それも他社と競合するような産業ではなくて、
他社とまったく違った独自の分野を開拓する方向へむかって。
この結果がどういう具合に出るかはまだ予断をゆるさないが、
私が今まで書いてきたことは、会社要覧に記載されている、
いかなる数字よりも、この会社の性格を如実に物語るものであろう。

オイルシールの株価は目下、五百円台にあってかなりの人気を呼んでいるが、
秋までには倍額増資が予想されるから、これから数ヵ月のあいだに
絶好の買い場があるであろう。

なお、長らくご愛読いただいた『会社拝見』も、
一応今回をもって打ち切ることにいたしました。
感謝の意を表して筆をおきます。              (おわり)」
                                          .   
                                          .
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この「会社拝見」の最後の企業である日本オイルシール工業株式会社を、
邱先生が「週刊公論」に執筆されたのは、昭和36年4月3日号だそうです。
21社の企業を訪問され、また経営者の話を聞かれたことになります。
第一回目の山武ハネウエル計器株式会社を書かれたのが
昭和35年11月8日号だそうですから、約5ヶ月にわたり
日本経済の成長といううねりを背景に、企業を見て来られ、
また書き留められたことになります。

象牙の塔から見る風景と、実際に現実を見た風景とは、当然異なるし、
それこそ「百聞は一見にしかず」ではありませんが
重みが違うことは明白です。
こういった中で、これから展開していくであろう事象と、
自分の目で見られた現実をすり合わされことを書かれたのですから、
洛陽の紙価を高められたことでしょう。

一人の社会人としての感想は、やっぱり職業に貴賎はないなということです。
第三回目のオリジン電気株式会社で、渡辺社長が若い社員の入社に際して、
「君は入社した以上、どんなイヤな仕事でも、たとえば、
便所掃除をやれと言われても、それを喜んでやってのける覚悟があるかね。」
と言われた場面がありましたが、
渡辺さんが清濁あわせのむ人物であった証左でもあったわけですが、
人の気持ちがわかる人にもなってほしいという願いもあったのでしょう。
また、社会がこういった仕事をする人がいることで成立っていることを
わからせようとしたのでしょう。
こういう人がトップに立つ社会は、幸せです。
社会の役に立つ仕事に、貴賎はないはずです。

一方で一投資家として見た場合の感想は、少し複雑です。
人間は先々の糧を心配する所があるので、将来の憂いを立ちたいという願望が
あると思います。
ですから銘柄選びに慎重になるし、投資した銘柄にも、時々チェックを
入れることになります。
またいくら考えても予測出来ないことは大いにあるのですから
時間を味方にする必要も出てきます。

よって、結局は自分の出来る範囲で行動するしかないようです。
それにしても、上の文章に出てくる鶴さんと
フリイデンベルヒの爺さんのやりとりは面白かったですね。
「お父さん、有難う」
といったくだりは、ユーモアがあって鶴さんの人柄が出ていました。
日本もドイツも、ユーラシア大陸の両端に位置していますが、
なにか文化の共通点を感じさせます。
今はどうかわかりませんが、家紋は、日本とヨーロッパしかないと、
ずいぶん前に本で読んだことがあります。
ドイツは今でも、実質、ヨーロッパの中心であり、車を見るにつけ、
しっとりした文化を感じさせます。
これからも精神的にも、物質的にも高尚な人間文化を
世界に花咲かせてもらいたいものです。

旅に出ると、人間生活の縮図を感じさせられることに出くわします。
同じように社会人になって、仕事を通して、人間模様を見てきました。
観察させてもらったと言った方が、正鵠を射ているかもしれません。
そういった中で、幸せな生き方をされているなあと思える人は、
やっぱり、今やっていることが元来、好きだという人です。
勿論、生活の糧を得るために、好きになる努力は必要だと思います。
しかしながら、職業は道楽であり、レジャーだという見方に立てば、
収入の多少に関わらず、自分のやりたいことをやった方が
幸せだという考えもあると思われます。

ということで、長かった企業生活にも決別することにしました。
あと数ヶ月で退社する予定です。
これからは、コーヒーを飲みながら本を読んだり、
社会探訪に出かけるのが、私の仕事になります。
なんだか遊び心の入った仕事ではありますが。
まだ自分の心の中に、青春が残っているようです。
上海で下宿生活したり、新天地や旧天地で、コーヒーでも飲みながら
出かけたりするのが、これからの夢と希望であります。

これにて、「夢と希望と」も舞台から降らせて頂きます。
ご愛読有難うございました。
またお便り、有難うございました。

これで完結ですが、非定期的に書かせてもらうかも知れません。
その時は、これまで同様に御指導、御鞭撻の程をお願いします。

「5.笑うべからず
その計画を見た銀行の重役さんは腹をかかえて笑い出した。

『鶴さん。吟行に融資を頼みにくる人は、計画書のなかに多少、
水ましをやってくることが普通だけれども、
こんな計画書なんてありませんよ』

借金だらけで明日の支払いも怪しいという会社が、
十年後に半期十億円売り上げると臆面もなく書いてあるのである。
金を借りに来る事業家をかず多く見ている銀行家としては、
笑うのが当たりまえであろう。
しかし、鶴さんはこう言った。

『どうしてお笑いになるのですか。
少しお笑いになるのが早すぎませんか』

相手は笑うのをやめた。
『もし、私がこのとおりにやれなかったら、
そのときになってからお笑いくださってもおそくはないと思います』

一番最後に笑うものが最もよく笑うそうであるが、
それから九年たった昭和三十五年十月期の売上げ高は
十一億二千六百万円に達したのである。
産業界の発展という幸運も幸いしているのだろうが、
鶴さんは自分の立てた計画を完全に実現したわけである。

もう一つ、鶴さんが副社長として当社の経営をひきうけることになったとき、
どうせやるなら出資者の一人になりたいと言って、
株の譲渡方を山脇さんに申し出た。
山脇さんは北九州の多くの事業に関係した地方財閥で、
そのときすでに六十七歳老人であったが、こう言った。

『オイルシールの株か。
もう少し柔らかければ便所紙にしてしまっただろうが、
便所紙にもならないから、どこかにしまってあるだろう。
ほしければ君にやるよ』

『いや、タダでもらうわけにはいきません。
将来、株に値打ちが出てきたときに、あいつにしてやられたという
悔いが残るといけませんから』

鶴さんは額面で株の譲渡を受けた。
当時、現社長の梅野栄さんは事業に疲れて脳溢血で倒れ、
言語障害をおこしてしまったので、以来、
鶴さんが事実上の采配をふるうことになった。
そして、十年たった今日、日本オイルシールの株価は、
増資後なお五百円の高値にある。
他人の懐を計算するのは愚かなことであるが、鶴さんの持株は
時価にしておそらく五億円はくだらないであろう。

                                                                           .
6.種トマトはあげられない
こういう具合に、始まりとただいま現在だけを比較してみると、
『うまいことをしやがった』
ということになるが、なかなかどうして、ここの至るまでの道は
決して容易ではなかった。

再建後のオイルシールは企業としても弱体なら、賃金ベースも低かった。
あのとき苦労を共にしてきた生え抜きの連中は、
『月給を何回かに分けて千円ずつもらったことがありますが、
途中で勘定間違いをして、もらいそこねた分も
あるんじゃないかと思いますよ』
と、往時を語っている。

それくらいだから、会社がもうかりはじめると、
すこしは人並みの給料を払って下さい、
といって労働争議が起こったことがあった。
そのとき、鶴さんはガンとしてゆずらず、

『農家だって、一番上等なトマトは食べないで種トマトとして残しておく。
なるほど会社はもうかりはじめたが、
これは会社の拡張のために使う金だから、たとえ会社をつぶしても、
君らにわたすわけにはいかない』

と言って、頑張りとおした。
その代わり、いつになったら、給与ベースをあげ、
ボーナスもふやそうという約束をした。
そしてそのとおりに実行した。

                                                                           .
                                                                           .
                                                                           .
企業は社会の公器という言葉をよく耳にします。
一方で、ある意味で、企業は精神修養の場かも知れません。
やりたくない事もやらねばならないし、苦渋の選択をすることにも
出くわします。
人生80年を20年単位に分けた場合、最初の20年を成長の準備期間、
次の20年を仕事に熱中する期間、それからの20年間は
人間としての成長期間、最後の20年間は人生の仕上げ期間と仮に置いてみます。
もっともこれは大変美しい分け方で、
現実には、どの期間でも喜怒哀楽の繰返しのようです。
思う通りになるまで悪戦苦闘するのが、人生だろうと思われます。

こういった中で、成就に向かって、出来るものからやっていく、
長所を生かしていくというのが、一般的だろうと考えられます。
上の文章の出てくる鶴さんも、自社の置かれた状況から出発して
今、何をしなければならないのか、また何を頼まなければならないのか、
そこをよく考えて、行動に出られたようです。
鶴さんの正直な再建計画書に、銀行の重役が笑う場面が出てきましたが、
彼の人柄がにじみ出ているようで、かえってこのことが
銀行の信頼を得たかも知れません。

また鶴さんは信念の人でもあり、志も高く、
経営においても、譲れる所と譲れない所をわきまえた人でもあったようです。
当時の山脇さんも、良きパートナーを持ったと、あとから振返って
会心の笑い顔を浮かべたことでしょう。

志の高い人には天も味方するようです。
幕末の長岡藩の小林虎三郎もその一人です。
以下、ネットよりの文を拝借しました。

文政11年(1828年)8月18日、長岡藩士小林又兵衛の三男として
生まれる。
崇徳館で学び、若くして助教を務める。23歳の時、藩命で江戸に遊学、
兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、
長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称せられる。
象山に「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、
わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」
と言わせるほど、虎三郎は教育者であった。

教育の重要性を説く虎三郎の思想は、帰郷後に著した「興学私議」に詳しい。
戊辰戦争に敗れ焼け野原となった長岡で、
「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。
食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」
と教育第一主義を唱え、三根山藩からの救援米百俵をもとに、
国漢学校を設立し、多くの人材を育て上げた。

後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。
東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、
司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。
虎三郎は明治4年、自ら「病翁」と名を改めているように、
終生を病にさいなまれた。明治10年、湯治先の伊香保で熱病にかかり、
8月24日に弟雄七郎宅で死去。享年50歳であった。

                                                                           .
小林又兵衛は高貴な人でもありました。
時代は変わって、現在はグローバル社会ですが、
人間の精神はそんなに変わらないと思われます。
生活の場が、海を越えて広くなって行くでしょうが、彼が残した思想は
これからも無形の財産として残っていくことでしょう。

次回も日本オイルシール工業株式会社です。
「会社拝見」は次回で完結となります。

「気のつかぬ場所で稼ぐ企業  ~日本オイルシール工業株式会社~   
                                                    
つまり、機械の活動が永持ちするためのリング …… 
それが、オイルシールである。
自動車には一台につき七個は使ってあるという。
絶対に必要な部品だから、まず急に不況が来るとは考えられない。
素人にはトンと解らぬところで、せっせと儲けている企業の一例である。

                                                                           .
1.機械のオシメなり
オイルシールって、何のことだか知らない人が多いだろう。

現に私と日本オイルシール工業株式会社の藤沢工場を見学に行った本誌のS君は
会社の応接間にはいってだいぶ話もすすんでから、
『オイルシールって何ですか?』と聞いた。
『とうとう白状しましたね』
と、案内役に立ってくれた会社の人は笑いながら、カタログを広げて見せた。

『いや、カタログはさっきからめくっているのですが、写真を見ても、
何に使うものか、さっぱり見当がつかないのですよ』
と、S君は言った。

『そう言えば、この間、僕が副社長の鶴正吾さんと対談をしたときも、
一緒に東京本社へ行った雑誌社の若い記者が同じような質問をしたよ。
オイルというから、石油産業か何かと思っていましたと言ってね』
と、私も一緒に笑い出した。

『オイルシールとは、オイルをシールする …… つまり封ずるものなんです』
と、会社の人は親切に説明してくれた。

『自動車にしても産業機械にしても、あるいは家庭用電気洗濯機にしても、
すべて機械にはベアリングがついていますでしょう。
そのベアリングをハダカのままにしておくと、潤滑油がもれてきます。
反対に外部の水やゴミが、なかへまぎれこむこともあります。
そこで、それを防止して機械の正常な運転を保護する役目をはたすのが、
オイルシールです』

『なるほど、すると、つまり機械がおもらしをしないように
機械にはめておく おしめ のことですね』

この擬人法的表現には、今度は会社側の人が感心させられたようだ。

                                                                           .
2.油止め器具の企業化
オイルシールの最も原始的な形は、内部にゴムをつめこんだ金属製の
丸い輪である。
その丸い輪を軸受けにはめこんだ場合、ゴムが密着するように
スプリングを輪にしたものでゴムをしめつけている。
その作用によって機械を長持ちさせようとするのだから、考えようによっては、
機械のための、『和合リング』ということもできそうである。

                                                                           .
3.用途不明の部品
西欧でいつごろからこのオイルシールというものが使われるようになったか
聞きもらしたが、日本では戦前、八幡製鉄などの大会社が
ヨーロッパから輸入した機械を分解すると、用途不明の部品が現れた。
いろいろ検討してみると、油の流出を防止するための部品らしいことが
わかった。
そこで見よう見真似でオイルシールの企業化がおこなわれるようになったが、
最初はオイルシールと言わずに、油止め、もしくは油止と呼んだ。
日本オイルシールの前身も東京油止工業株式会社という名前だった。

戦争中は、軍の管理工場として、戦車や航空機や自動車用のオイルシールを
つくっていたが、戦後は自動車、小型三輪車、圧延機、
一般工作諸機械用のオイルシール製造に転換した。
しかし、実はこのときがオイルシールの低迷期であったのである。

オイルシール業界は群小メーカーの割拠で、日本オイルシールの前身である
神戸の日本油止も東京の東京オイルシール(東京油止改め)も、
ともに資本金百四十万円、二百万円の小企業であった。
のちに、この二つの会社が合併して今日の日本オイルシールになったわけだが、
資本金百四十万円の小メーカーが十年足らずで資本金三億円、
製品の独占度八五%におよぶ新鋭花形会社になるについては、
どうしても副社長の鶴正吾さんをひっぱり出して
俎板にのせないわけにはいかないであろう。

                                                                           .
4.銀行が驚いた十年計画
鶴さんは俎板にのせられることの大嫌いな人で、ジャーナリストに対しては
愛想が悪いので、キヨホウヘンの分かれる人であるが、
事業欲の旺盛なことはその右に並ぶ人を発見するに
困難を感ずるほどである。

その鶴さんがオイルシール入りをしたのは今から十一年前、
三十四歳の時であった。
当時、神戸の日本油止は百四十万円の資本金で負債が三千五百万円、
よくも借金がこれだけたまるまでやりくりがついたものだと感心するような
倒産会社であった。
鶴さんは現会長であり当時の金主であった福岡の山脇正次氏から
懇望されて入社した。

はじめは半年か一年、再建と見通しがつくまでという心づもりで、
平社員としての資格だった。

入社数ヵ月で、鶴さんは再建計画をたて、人員も機械もまったくふやさずに、
一ヵ月で売上げを百五十万円から六百万円にもっていった。
つづいて十ヶ年計画をつくり、それをもって福岡銀行へ融資を頼みに行った。」

                                                                           .
                                                                           .
                                                                           .
事業をやる人は、それぞれに夢と希望を持ちながら
事業を推進して行きますが、同時にそれを影で支える人財がいます。
上の文章に出てくる鶴さんも、その一人だったようです。

新幹線で関ヶ原近くを通る時には、兵どもが夢の跡でもある
関ヶ原の戦いに想いを馳せます。

松尾山に布陣した小早川金吾中納言秀秋の裏切りにより、
山中村に布陣していた西軍随一の軍略家であった越前敦賀5万石の
大谷刑部少輔吉継の想いも空しく、
西軍は総崩れ。
当初、桃配山に布陣していた家康の勝つべくして勝った
乾坤一擲の戦いでもありました。
家康の実力とはいえ、やっぱり秀吉の経世の才よりも
家康の才が優ったということかも知れません。

さて関ヶ原の戦いと相前後して東北地方でも、会津120万石の太守である
上杉景勝と最上義光の戦いがありましたが、
ここで直江山城守兼続の名前が登場します。
兼続は戦いは下手だったようですが、主君の上杉景勝の信任が厚く、
景勝を支えていました。
兼続は大阪冬の陣と大阪夏の陣にも参陣したようです。

私は中学3年生の時に、NHK大河ドラマの夜8時から始まる「天と地と」を
毎週かかさず見ていました。
海音寺潮五郎さん原作のこの本は、読んだことはありませんでしたが、
かの上杉謙信役は石坂浩二さんでした。
熱演も見事でした。
私は53歳になりましたが、上杉謙信の生き方は、今でもすがすがしく、
共感と好感を持っています。

頼山陽の漢詩である次の詩は、言い得て妙で、
気に入っている漢詩でもあります。
「鞭声粛々夜川を渡る
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨なり十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸す」

このように世の中には、主役を輔佐する人物がいるものですが
脇正次さんと二人ずれした、鶴さんの活躍が次回に続きます。

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