夢と希望と(虹原太助)

戸田ゼミコラムのアーカイブです。このコラムはすでに連載を終了されています。

2006年10月

5日目。
この日はエルミタージュ美術館の見学だ。
大英博物館、ルーブル美術館と並び
世界の三大博物館と言われるエルミタージュ美術館。
エルミタージュはフランス語で「隠れ家」を意味するそうで
この美術館の事実上の創設者はエカテリーナ2世だそうだ。

ここは、歴代皇帝の居住地。
エルミタージュ美術館は冬宮(ロマノフ王朝歴代の皇帝の正規の宮殿)を中心とした
5つの建物で形成されているそうで、それぞれ冬宮、小エルミタージュ、
旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場だそうだ。
冬の宮殿である冬宮は、イタリア人ラストレリの設計で
バロック様式だそうです。

建物の中は、これまた金メッキをたくさん使用しており
見るのもだんだん疲れてきた。
2年間かかって作ったと説明を受けた絨毯は見事でした。
絵画では、「美の聖母」や「エリータの聖母子像」が
有名だそうで、ダビンチやピカソの作品もあった。

エカテリーナ2世の時に、オスマン帝国との露土戦争に勝利して
ウクライナの大部分やクリミア汗国を併合し、
バルカン半島への基礎を築いたそうで
オスマン帝国との海戦の様子を伝える絵画も
飾られていた。

建物の外では、お土産を売っていたが、
中国人のようなひつこさがなかった。

次ぎに「エカテリーナ宮殿」を見学した。
サンクトペテルブルグ市内から、バスで約1時間位走っただろうか。
これまた立派な建物だ。
柱にも贅がつくされている。
金メッキと天井画がまぶしかった。
中国の陶磁器も陳列されていた。

ガイドさんは大黒屋光太夫のことを話していたが
エカテリーナ2世が在位の時、大黒屋光太夫が
彼女に接見して帰国を許される所は、
井上靖さんの「おろしや国酔夢譚」でも
読んだことがある。

この日、サンクトペテルブルグで宿泊。

4日目。
寝台列車は9時間かけて、サンクトペテルブルグに到着。
途中、風景を見てきたが、原野が広い。
やっぱり大陸だなと思った。

その後、ホテルに直行。
ホテル名は「ノボテル サンクトペテルブルグ センター」。

朝に着いたので、荷物のみホテルに預ける。
邱先生は、「フランスの三流ホテルだね。」
と言われたそうだ。
コーヒーで一服。
それにしても、コーヒーを持ってきてくれた
ロシアの若い女性を見ながら、美しいと思った。
また可憐だと思った。

この日は市内観光だ。
サンクトペテルブルグは「聖ペテロの町」を意味するそうだ。
聖ペテロはドイツ語でぺーテル。
ロシア語でピョートルを意味し、彼の名前に関係するそうだ。
なお、ブルグとは、ドイツ語で「城壁都市」を意味し、
ドイツのハイデンブルグなどに使われているそうです。

サンクトペテルブルグはロシアのロマノフ朝最盛期の
皇帝ピョートル大帝によって建設されたそうだ。
スウェーデンを破って北欧方面の支配権を確立した彼は
バルト海への拠点としてフィンランド湾に面した寒村に
新しい都市を建設。
湿地帯での都市の建設は困難を極め、
多くの労働者が犠牲を払ったそうです。

バスからこの都市を流れるネバ川が目と鼻の先に見えた。
なんでもこの川には、21の橋と60の運河があるそうだ。
大きな川だ。
昼食後、水中翼船に乗り、約30分したら、
バルト海に面したある船着き場に到着した。
海水浴している人々を見かけた。
約20分位歩いたら、ピョートル宮殿が見えてきた。
ここは、ルイ14世のベルサイユ宮殿に思いを馳せて
造られたそうだ。

サンクトペテルブルグから約40キロ離れた
フィンランド湾南岸に位置するこの宮殿は、「夏の宮殿」とも呼ばれ、
ピョートル大帝に所縁のある皇帝の夏の宮殿だそうだ。
ここからフィンランドのヘルシンキまで約80キロだと
旅のガイドにありました。

庭にはたくさんの噴水がありました。
建物の中は、金メッキで張られ豪壮でした。
当時、ロシアはたくさんの金が取れたそうです。
立派な玉座も陳列されていました。
ただ毎日、こういった所で生活すると
疲れるだろうなあと思いました。

帰りには、バスからサミットが開催された
建物が見えました。
ロシアは建物だけは立派でした。
ここサンクトペテルブルグの市内は
ドイツ車と日本車がほとんどだった。
品質では、ロシア車は太刀打ち出来てない。
工業製品の粋を集めた車で、こんな有様だ。
ロケットだって、旧ソ連が月に人間を送りこめなかったのも
品質とそのシステムに欠陥があるからだと
ずいぶん前に本で読んだことがあった。

ネバ川には巡洋艦「オーロラ号」が浮かんでいた。
日露戦争での日本海海戦で逃げ帰った数隻の1隻だ。
船に乗ると感慨無量になった。
司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の主人公のことが
思い浮んできた。

この海戦は実質、秋山真之中佐(当時)の満を喫した作戦によって
日本を救った乾坤一擲の戦いでもありました。
下瀬火薬と猛訓練も勝因でした。

戦後、ロシア側の戦艦の乗務員の記録だと
日本海軍の射撃は正確で、弾丸が
何回も落ちて来たと記されていたそうです。
それはそうだろう。
真之は、日本の戦艦の全砲塔を
ロシアの軍艦1隻を目標にまず集中砲火を
浴びせ、その後、他の軍艦を同じ方法で次々に
撃破して行く作戦を練ったのだから。
イギリス海軍も同じ方法を同じ時期に考えたそうです。

まずロシア艦隊の旗艦「スワーロフ」が戦闘不能に陥る。
司令長官のロジェストェンスキー中将は指揮権を
二番艦に移譲。
旗艦「スワーロフ」は、最後に日本海軍の駆逐艦により
魚雷で沈没させられました。

秋山真之は愛媛県松山市に生れ、東京帝国大学を目指すが
家が貧乏なため、海軍兵学校に入学。
真之は海軍兵学校を首席で卒業し、アメリカへ留学。
マハンの戦法を研究し、海軍きっての戦略家にして
戦術家になっていくのでした。
伊予水軍の戦法を駆使し、日本海海戦では約30分で
勝敗が決まったと言われています。
連合艦隊司令長官、東郷平八郎の作戦主任参謀として
旗艦「三笠」でその職を全うし、その後、中将になるのですが
病気で49歳で死去。
私が尊敬する人物の一人でもあります。

兄の好古は陸軍大将までなり、晩年は四国松山の
北予中学(現松山北高)の校長になり
71歳の生涯を閉じました。
因みに満州軍総参謀長の児玉源太郎大将は
戦争が終わって3年後、54歳で死去しました。

日本は必要な時に、いい人材に恵まれ
幸運でした。
その後は、驕りと人間の心を失いかけ、日本をあと一歩手前まで
破滅に追込んだのは歴史の教える所です。
ただ技術は脈々と受け繋がれてきて
今や、世界のトップクラスに立っているのは
周知の通りです。
この日、サンクトペテルブルグに一泊。

3日目。
ホテルの朝食はおいしかった。
特にフルーツが新鮮だ。
スイカもあり、味もまあまあだ。
パンもなかなかいける。黒パンをイメージしていたが
さにあらず。種類も豊富だった。

この日はモスクワ市内の観光だ。
バスからはチェーノフ博物館やKGBの建物が
見えた。
モスクワ大学も見えた。
路上でスイカ売りを見かけたが
南ロシアよりもって来たそうだ。

車は比較的たくさん走っているが、ドイツ車が多い。
ロシアの国産車は「ラダー」といって
イタリアのフィアット社よりの技術導入だそうだ。
しかしながら、デザインは見劣りするし
排気ガスも多い。競争になっていない。
これでは、車の輸出など、とても考えらねないし
世界の消費者も受入れしないだろうと思った。

それにしても路上駐車が多い。
なんでも、取締る費用がかさむらしく
ほったらかしのままだそうだ。

修道院が見えてきた。
「世界遺産」に登録されているそうで
修理中であった。
今は、一年で一番いい季節だそうで、花が美しい。
赤い花と木の緑がうまくマッチしている。

旧ソ連の国旗も赤が基調だったが
緑とよく調和がとれているからだと
糸川英夫さんの本を読んだここがあったが
合点がいった。

ここには白樺の木があり、
日本で見ていた木より高い。
菩提樹の木もある。
この木からはハチミツがとれるそうだ。

しばらくして、バスから川に浮かぶ小さな船が見え
その上に人物像が見れた。
ペトロ一世だそうで、海軍の創設者だそうだ。

そのうちバスはチャイコフスキーの「白鳥の湖」に到着。
しばらく湖を見る。
そんなに広くもない。湖の白鳥を見ながら、
彼は何を考え、何を構想したのであろうか。
近くの店では、お土産用のロシア人形を売っていた。

昼食は古い建物の中にあるレストラン。
さしておいしくない。
近くの道路は八車線だ。
ここはメインストリートの一角のようだ。

その後、赤の広場を見学。
ガイドさんの話では、小学生の時、
パレードがあると、参加させられたそうだ。
あいにく小雨が降ってきた。
ちょうど近くにある「グム百貨店」が
開店の時間になったので入る。
3階建ての造りになっており、感じも良い。
だが商品は皆高い。とりたててほしい商品はない。

次にクレムリン宮殿を見学。
クレムリンとは壁という意味だそうだ。
ロシアの大統領が執務している建物も見た。
この日、プーチンさんは不在だそうだ。

クレムリンの中には、ナポレオン軍よりの
戦利品である大砲が陳列されていた。
ナポレオンは約1ヶ月、クレムリンにいたそうだが
彼が入城した時は、町は焼かれており、食料品も
なかったそうだ。
10月になるとモスクワは雪が降るので
フランスを目指して帰るのですが
途中、ロシア軍の攻撃を受け、
ナポレオン軍は半数しか戻れなかったそうだ。
まさに「冬将軍」の賜物だ。

その後、バスは飲食店の前で駐車。
この店には、日常の食料品やアルコール類が
売られていた。これまた高い。
日本の物価と変わらない。

夕食後、サンクトペテルブルグ行きの
寝台列車に乗る。
駅の名前はモスクワ駅ではなく
行き先であるサンクトペテルブルグ駅だそうだ。
トイレは有料だった。中国のトイレも有料の所があり
考えることは一緒だなと思った。
寝台列車は広い。この日、車中で一泊。

2日目。
この日はモスクワへ出発する日だ。
北京発の飛行機が14:25なので、
簡単な昼食を摂る。
イルミリオーネでは次のメニューでした。

1.前菜の盛り合わせ
2.冷製 ジャガイモのスープ
3.冷製 海の幸のスパゲティ
4.自家製シャーベットとパンナコッタ
5.コ-ヒーか紅茶

北京からモスクワまでは、中国国際航空の便でした。
雨が降って視界が悪いのか、なかなか飛び立たない。
結局約2時間遅れの出発となった。
所要時間は約8時間。
モスクワと北京の時差は4Hだそうだ。

モスクワ空港に着いてから、税関を通るまで
約2時間かかった。
周りの人は、うんざりしている。
近代国家の様相を呈していない。
やっと空港の外に出たが、雨が降っていた。
肌寒い。

約10分して迎えのバスが到着。
バスから見るモスクワの道路には
以外にも車が多い。コンテナを積んだトレーラーも
多かった。

夕食のレストランに着いたが、時刻は既に
22時を過ぎていた。
古い建物の中にレストランはあった。
すぐに準備をしてくれたが、なんだか機械的に
やっているようで、どうもサービス精神が感じられない。

この日、一泊。
ホテル名は「ホテル ナショナル(ロイヤル・メディアン・ホテル)」。
約40分位でたって、部屋の割当てが終り、部屋に入った。
エレベーター内は狭い。6人位入ったら、一杯になる。
エレベーターの数が少ないようだ。
またエレベータから部屋まで少し遠い。

ホテルの建物は古い。
内装はフランスのホテル会社によって改装されたそうだ。
赤の広場と目と鼻の先にある。
なんでも赤の広場に近いホテルは
料金が高いそうだ。

今回から、8月に参加しました
中国・ロシア投資考察団の旅日記を何回かに分けて
書き綴ってみようと思っています。

当初、ロシアには、行く考えはなかったのですが、
人生の思い出として行くのもいいだろうと考えて
参加しました。
最初で最後のロシア旅行です。

現地に行った時には、思った通りの国だなというのが
初印象でした。
結論としては、ロシアは近代的な工業国家には
向かないし、またならないだろうということでした。
そのあたりは、邱先生がコラムで喝破されている
通りです。

それこそ、減価償却が終わったような建物に
住み続けて、目新しいものがないのですから。
もっとも一部、モスクワにはマンションが建設されていましたが。
レストランもほとんど古い建物の中にありました。

それはともかく、旅日記を続けます。
今回は総勢36名の旅となりました。
先生と秘書の徐さんと上田尾さん、
名鉄観光さん、そして考察団の団員32名。

いつもの通り、北京到着後は三全公寓に向かう。
三全公寓の近くを流れる川には、人が泳いでいました。
北京の8月は暑い。
三全公寓に到着後、Qコーヒーの店にて
おいしいコーヒーで一服。
団員の間では、あのバイオのメーカーである
「常茂生化(コード:8208)」のことで
話がもちきりでした。

楽しみな夕食は、「陶朱公館」にて食しました。
メニューは次のものが出ました。

 1.くらげとりんごの和え物
 2.カニ子サラダ
 3.四川風牛肉
 4.貝柱と卵白の炒め物
 5.蒸し鳥のぶつ切り
 6.邱家のオニオングラタン
 7.サトイモと豚肉の蒸し物
 8.海老、油条、クワイのレタス包み
 9.牛テールの中華風煮こみ
10.さやえんどうの蝦子ソース炒め
11.舌平目の貴州ソース炒味
12.邱家の小龍包
13.ほうれん草のチャーハン
14.マンゴープリン
15.フルーツ

これらの料理には満喫しました。
スイカが昨年に比べておいしくなっていました。
進歩のあとが覗えました。
この日、一泊。

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