夢と希望と(虹原太助)

戸田ゼミコラムのアーカイブです。このコラムはすでに連載を終了されています。

2007年10月

「好況を呼ぶ虹のかけ橋

高速道路といえども、橋なくして川を渡ることはできない。
道路に国が力をそそげば、
当然のことに橋梁事業の重要性は増して来る。
地味な橋つくりの担い手は脚光を浴び始めている。

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1.一変した橋梁事業の性格
昨年八月、建設省から発表された
「新道路整備五箇年計画案」によると、道路整備のために、
今後十年間に総額六兆円を投資することを目途として、
さしあたり、昭和三十六年以降五ヵ年間に
総額二兆三千億円を投資する計画だそうである。

新年度の予算原案が発表されると、兜町はそれを好材料として
土木、建築、道路などの建設株が一せいに値をとばし、
つづいて建設機械株が軒なみ買われることになった。

なにしろ公共投資は一たん決定されると、
景気不景気にかかわらず実行に移されるし、設備投資のように
供給の増大という形をとってはねかえって来ない。
その意味では軍艦や大砲の建造同様、再生産過程から脱落して行くので、
むしろ景気を刺戟する要素として歓迎される。

ことに昨今のように日本経済に低力がついてくると、
この金額はふえて行くことはあっても減って行くことはまず考えられない。
したがって建設および建設関連株が意外な大相場を展開するのは当然であって、
もう少しすればそれが意外ですらなくなってしまうからであろう。

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2.憎まれない橋つくり
ところで、その場合もう一つ見落してならないのは、橋梁株である。
「橋をかける」とか「橋わたしをする」とかいう日本語は、
大体いい意味に使われている。
むかしは弘法大師があちらこちらに橋をかけたし、
いまでは代議士が自分の選挙区に橋をかけている。
どちらも自分の金でかけたわけではないが、
橋をかけて憎まれたということはきいたことがない。

その半面、橋は営利事業ではないから、
ムチャクチャに橋がかけられる可能性もない。
おそらくそのせいであろう。
橋梁会社は戦後十数年、着実な成長をしてきているにもかかわらず、
とにかく人気がつかなかった。

そうした橋梁事業の性格を根本的にかえてしまうのが
「新道路整備五ヵ年計画」だといってよい。
なぜならば、狭い日本の国土を無数の河川が流れており、
道路をつくって橋をかけないでおくわけにはいかないからである。

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3.全国の橋を鉄橋にするには…
現在、日本全国にかかっている橋の大半は木造の橋で、
これを鉄橋やコンクリート橋梁や
いわゆるPS橋梁などの半永久的橋梁にかえるのは当面の急務であるが、
政府や都道府県が今日支出しているスケールの予算でかけなおして行くと、
だいたい百五十年かかるそうである。
いくら薄のろの為政者揃いでも、このジェット機時代に、
まさか百五十年計画で橋をかける悠長なことはしないであろう。

いや、現に名神高速自動車道や首都高速道路や
国有鉄道東海道新幹線を第一弾として、さらに国有縦貫高速自動車道、
東海道新幹線自動車道が続々と決定されている昨今、
橋梁事業の発展増大を従来の観念で律するのは、誤りと言うべきである。
土建屋さんが需要の増大に目をパチクリさせているように、
橋梁屋さんもあれよあれよと思っている現状だが、
おそらくそれではすまなくなる事態が近い将来に来るに違いない。

そういう観点から、私は日本の会社を検討してみた。
現在、日本で橋梁メーカーの大手五社とよばれるのは横河橋梁、
宮地鉄工、松尾橋梁、滝上工業、それに専業ではないが汽車製造の五社である。
汽車製造は車両や工作機械のメーカーでもあるが、
その他はいずれも店頭株であり、
滝上工業は名古屋店頭、松尾は大阪では上場している。
橋梁と名のついたのには、ほかに日本橋梁であるが、
これは鉄塔メーカーと呼んだ方が正しいでろう。」

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「会社拝見」も中間地点を折返した所です。
今回から宮地鉄工所が登場します。
今日の日本では、新規に橋の工事をするのを見聞するのは
少なくなりましたが、
上記に出てくる文章を読むと、当時の臨場感の始まりが伝わってきます。
国の成長期には、道路工事や橋梁工事といったインフラがあり、
それなりに活況を呈しますが、
今はお隣の中国にも、好運を呼ぶ虹がかかり始めた、
そして百花爛漫になってきた状況だと思います。

考察団で南京から揚州に向かう旅で見た揚子江にかかっている橋を
見たことがあります。
大きな橋でしたが、まだまだ数が足りないなという印象を持ちました。
こういった橋が、これから全国に造られていくでしょうから、
それなりに波及効果もあることでしょう。

宮地鉄工も、こういった成長の初期段階で活躍した会社のようです。
この段階で、この企業の将来性を信じて、素直に行動した投資家が
報われたことでしょう。
まず行動しないことには美しい花を手に入れないのですから。
やっぱり、大衆が気付く前に、先に手を動かす人に、
最初の御褒美が与えられるようです。

こうやって御褒美をもらっいく投資家は、
その内に、金銭的に何不自由ない生活を送ることになるでしょう。
金銭的に何も困らなくなるということは、生きて行く上で
大きな安心感が出てくることなので、
それはそれで、人生の大きな目的を達したことになります。
お目出度いことです。

そこから人間としてどう生きたら精神的に幸せになるのでしょうか。
実はこの文章を書く前に、知人のお見舞いに行ってきました。
その人はガンに侵され、肝臓にも達しており
お医者さんからも手の施しがないということで、
自宅でほとんど寝るだけの生活です。
まだ定年を迎えてから一年位しか経っていません。
顔もげっそりと痩せておられ、本人が一番つらいし、
なぐさめの言葉もかけられないし、
かってお受けした御厚誼に感謝を申し上げて自宅を後にしました。
涙がこみ上げてきました。

こういうことを現実にすると、人間の幸せとは何か深く考えさせられます。
人生には、思い出と心の満足感しか残らないと思っています、

次回も続きます。

「9.企業体質を数字で見ると
一方、鍛造、鋳造部門の方も、高度の技術を買われて、
内輪機関用の部品や自動車部品で繁忙をきわめ、
なかでもジェット・エンジンのハネのような精密部品の製造は
当社のお家芸とでも言うべきものであろう。
この方面の需要も拡大する一方なので、さきに一億円をかけて、
鍛造用プレスをチェコから購入した。
私が工場見学に行った時は、この建物が出来あがって、
機械をすえつけているところであった。

工場内をくまなくまわって見て感じたことは、
これが資本金二億七千二百七十万円の会社とはどうしても思えないこと、
機械設備や生産能力から見て少なくとも十億円以上の会社であること、
もう一つは、はじまってから三年間の会社とは
どうしても思えないことであった。

この二年間における日特金属の業績の推移を見れば、
このことは一層明瞭になる。

        (百万     (%)   (%)
 年月    売上高   純益 利益率   配当
31・ 4    九二三    四一    九一      〇
31・10 一、一九四    六〇    一三二    〇
35・ 4 一、五八九    六八  一五一  一二
35・ 4 一、八〇八    一〇六    七九  一二

すなわち昨年二月に資本金九千九十万円一挙に三倍増資をして
二億七千二百七十万円になったが、十月期の売上高は月平均三億円、
機械工業のように利益の多い業種において、
月に資本金が一廻転する会社は公開会社の中にその比を見ないであろう。

そればかりではなく、ブルドーザーの月産能力を
現在の六〇台から本年十月までに百台にしようとしているので、
今四月期は月売上が四億円、来十月期は五億円、十一月から六億円となり、
この数字は経済界の好況不況にかかわらず達成できる数字と
会社側は見ている。
小松の売上高が資本金六十億に対して百五十億円程度だから、
日特金属の売上高が三十六億円になったら、
資本金十五億円くらいになってもおかしくないであろう。

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10.今年二回の増資で人気上昇
さきにもふれたように、日特金属は昨年十二月十九日に、
日特鋼の持株の中から二十九万株を公開して店頭へ上場してきた。
売出価格は百七十円であったが、初日に三百八十円からはじまり
三百六十円にひけた。
翌日は利食いでさらに転落すると思いのほか、逆に上昇をはじめた。
四百円台の大台にのせきれずに何日か伸び悩んだが、
大納会の前日に公募付倍額増資が発表になると、
高値四三十五円まであって、大納会には四百二十三円にひけた。
もし百九万二千株の公募がついていなかったら、
四百五十円買いときて昭和三十五年を越したに違いない。

しかし、以上述べてきたような会社の企業素質を考えると、
日特金属はあらゆる機械産業の中で、
土建ブームの好況をまともにうける会社であり、
おそらく本年において最も出世をする株の一つであると思われる。

私は日特金属の株価予想を大胆にも社長さんの前でやってみた。
『まず増資が発表になって五百円台にのせる。
権利落ちしていくらになるかはわからないが、
小松製作所より資本金もはるかに小さく、売上比率はよいから、
小松よりも安いことはまず考えられない。
かりに安いとしても、おそらく急速に訂正買いが行われる。
ところがこの株は権利落ち後にジリジリと高くなって、
年末が近づくと再び五百円台にのせる。
なにしろ借金も多いし、設備資金に四億円かけるとなると、
また倍額増資の匂いがしてくるでしょうからね。こういう予想でどうですか。』
『社長の私が言うのはどうかと思いますが、
まあ、あたらずといえども遠からずですかね』
と、北さんは笑った。

年が明けると建設株及び建設関連株に人気が集中し、
一月六日にはストップ高の五六〇円がついた。
この分だと、権利落ち後に意外な大相場を展開しかぬまじき勢いである。

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この日特金属も、例によって例の如く、
土建というブームに相乗りして大きくなった企業のようです。
このブームというのは、世の中に変化が現れると、
不思議なもので出現してきます。
この世には、それこそ、より一層、社会をいい方向に発展させていこうとする、
何か見えざる神の手という力が働いているのではないかと思いたくなります。
例えば、エネルギーの変遷にしても、石炭のような炭素含有の高いものから、
石油、天然ガス、そして水素エネルギーに変わってきています。
段々と炭素含有の少ないものに取って代って、環境負担・資源負担の低いものに
移行して行く構図になっています。

このことは、経済や国の栄枯盛衰にも関わってきました。
産業革命以降に石炭が本格的にお目見えすると、大英帝国の時代になったし、
技術も蒸気機関車や蒸気船など、イギリスで実用化され、
イギリスに富みをもたらしました。
パックス・ブリタニカの時代でした。
次に石油の時代になると、パックス・アメリカーナの時代になりました。
自動車はその最たるものです。

今の石油の価格はニューヨーク原油価格が、
一時90.07ドルになりましたが、
これとて次のエネルギーに変わっていくと、
需要と供給の関係で落ち着く所に収まるはずです。
石油そのものに付加価値はありません。
ちょうど約400年前に、オランダのチューリップ価格が
急落したような極端な下げはないにしても収束すると思われます。

いずれにしても、しばらくは石油の時代は続くと考えられます。
今は燃料電池や電気自動車、バイオ燃料など、次のエネルギーの実用化に向け
試行錯誤が始まった、前哨戦が始まった、
またつばぜり合いが始まった段階だと思われます。
バイオといっても、今始まったのではなく昔からありました。
例えば、味噌、お酒など。
バイオが以外と身近であり、次のエネルギーに大きなインパクトを与えると
言えるかも知れません。
こちらの方が自然的です。

私は約50年から60年の長期の経済の波があるとする
コンドラチェフの波の信奉者です。
彼が喝破したように、技術革新や戦争が原因だとすれば、
ポスト石油の時代はどんな様相を呈するのでしょうか。
国の盛衰も今とは変わってくることでしょう。
コンドラチェフの波の長さにずれがあっても、
いずれの国も、この法則から逃れることは出来ないでしょう。
変化に対応出来なければの話ですが。

歴史にも波があるように、
この世を謳歌した国にも、いつかは諸行無常の響きが聞こえる時が来ます。
経済にも、技術にも波があるのですから
運命だって波があるやも知れません。
光にも粒子の性質以外に、波の性質があるのですから。
重力波、またしかり。
この世の中は複雑怪奇に見えても、
以外と単純な構造になっていると考えられないでしょうか。

こういったことで、企業も押し寄せる波にもろに影響を受けます。
たとえば、石炭の時代から石油の時代に代わっていくと、
変化に対応出来ない企業は、淘汰されていく運命にありました。
そうでなくても商品や製品にも誕生から成長、成熟
そして死滅するサイクルがあります。
それから同じ商品、製品のマーケットでも複数の企業がひしめきあい、
競争が生じます。

いずれにしても、時に勢いに対応出来なければ、
企業そのものがなくなっていくことになります。
結局は、人間が現実に直面する問題をどう捉え、どう考え、
どう行動するかにかかっているようです。
とにかく時流の波に乗らなければ、発展はないということだと言えます。
日特金属にしても、時流に乗った昭和30年代が、投資家にとっては
一番旨味のある時期だったのでしょう。

次回は橋梁の宮地鉄工所です。

「4.戦車メーカーの実力
この不思議な社名は、日特金属が日本特殊鋼から分かれて出来た
子会社というか弟分会社というか、分身会社であるところに由来している。
日特鋼は人も知る特殊鋼の名門で、戦前から特殊鋼にかけては
高い技術水準を誇っていた。
今でこそ特殊鋼というと産業機械や建設機械を連想するが、
むかしは戦車や大砲や機関銃を連想するのが当り前だった。
ブルドーザーと戦車は使用する目的が違うだけで、
機械としてはきわめて高度の技術を要求されるものである。

だから戦車メーカーがブルドーザー・メーカーに変身するのは
決して偶然ではなく、小松製作所がかって軍需工場であったように、
日特鋼もかっては世間にこそあまり知られていないが、
武器製造業者だったのである。

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5.堅実な技術陣の成果
その日特鋼がなぜブルドーザーの製造にのり出したのか。
それは戦後、占領軍が日本へ持ちこんできた
アメリカ製ブルドーザーの部品に困り、現物を日特鋼へ持ちこんで、
部品をつくれとやかましく言われたせいだった。

『すりへった部品をあたえられて、これと同じものをつくれと言われましてね。
新しいものをあたえられてならまだ話がわかりますが、
その原形を復元したり、材質を分析したり、
そういう技術者を以前から抱えていたからこそできたことで、
大へん苦労致しました』
と、現日特金属の技術総帥でもあり、
常務でもある河村正弥工学博士は当時の苦心談をしている。
が、ともかく部品製造からはじまって、ついに完成品を
一台そっくりつくるところまでこぎつけた。
『はじめの頃は、いま考えて見ると
赤面するようなブルドーザーをつくったものです』

次々と組み立てられて行くブルドーザーの新しい工場の中を
案内してくれながら、河村博士は昔と今を比較して見せる。
『当社の強味は、第一に日特鋼時代から温存していた技術陣が
すぐれていること、
第二に日特鋼の良質の特殊鋼の供給を受けているので、
材料面で強みを持っていることです』

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6.まだ実際は三年生
田無にある今の日特金属の本社は旧中島飛行機の田無工場で、戦後、
瑞穂産業とか瑞穂金属とか、さらに富士金属とか転々と名前を変えた。
業績が不振で、金を貸していた日本興業銀行がさんざもてあましていたのは
有名な話である。

かねてからブルドーザーおよび鍛造部門の本格企業化をねらっていた日特鋼は、
敷地四万5千坪のこのボロ会社に目をつけ昭和三十年五月に系列下に入れ、
社名も日特金属と改めた。
最初はまず日特鋼蒲田工場の型打鍛造設備と人員をここに移し、
ついで三十三年になってから機械部門の全設備と人員を移して、
ブルドーザーとトタラクターの生産をはじめるようになった。
だから日特金属の歴史は、私の目から見ると、
まだ満三年しかたっていないのである。

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7.湿地も急坂もなんのその
ブルドーザー・メーカーのあいだには、
『北海道を制する者は全国を制す』
という合言葉がある。
農業の機械化は北海道のような土地の広大なところからはじまるというわけだ。

日特金属が発足したばかりの頃、社長の北耕二さんは、
この合言葉に従って、まず北海道の農業関係者からの口説きにかかった。
既存メーカーからの暗黙の妨害もかなり強かったらしく、
『私はさんざんつるしあげをくらいましてね。
でも我々は宣伝よりも実績で示そうと思いました。
ここへ移ってくる時から、私は絶対的な自信を持っていました』

日本はアメリカやヨーロッパと違って、湿地帯が多い。
ぬかるみの中に普通のブルドーザーを乗り入れようものなら、
いかに馬力の強いものでも車がスリップして立往生する。
また急斜面で作業をする時は、標準型ブルドーザーでは登板能力が不足する。
そこで日特金属は三角形の履板をはかせたブルドーザーを考案してこれを
『湿地用ブルドーザー』と名づけて売る出した。

このブルドーザーは大いに当たり、他社でも、日特金属の特許がおりるまでに
四、五年かかるのをいいことに、さっそく同じものを売り出した。
『それでも多少は良心があって、最初は三角形の先端を丸くしたり、
角度を変えたりしましてね。
でもやっぱり駄目で、今は、我々の社とそっくり同じ形のものを
つくっております』

湿地用ブルドーザーの特許は、イギリスの方で一足先に許可され、
日本側も公示を終わっているから近いうちに許可になるだろう。
その場合、日特金属の出方一つで業界は大騒動になる可能性もある。
なぜならば、部品の製造ができないことになれば
他社から過去に売り出された製品は
廃物同様になってしまいかねないからである。

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8.溝も掘れます
この一例からもわかるように、日特金属は商売上手というよりは
技術を売物にしているところがあるので、
他社に比して耐久力を持っているという自信を持っている。
象の牙のような形のレーキドーザーも当社が日本では真先に売り出しており、
溝掘り装置のついたフルトレンチャーは
今のところまだ当社しかつくっていない。

こうした行き方をまず認めたのが意外にも官庁筋で、
小松や日本重工が民間土建会社に地盤をおいているのに対して、
日特金属は農林省や建設省の官庁御用からまずはじまった。
民間では国土開発が最も大きな得意先であったが、
現在では大成、鹿島、間、竹中、ブルドーザー工事、佐藤、
東亜港湾をはじめ、電力、鉄鋼、自動車、造船の大手、
土建やメーカーに納入するようになり、
官需と民需の比率は二対八という割合になっている。

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                                                                           .
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日特金属の親会社である日本特殊鋼は、名は体を表す通り、
戦前から特殊鋼については、高い技術を持っていたようです。
零戦搭載の20mm機関砲はじめ、当時の陸・海軍の主力機関砲は
すべて日本特殊鋼が開発したものが使われるようになったそうです。

その零戦ですが、大東亜戦争中に開発されたこの戦闘機は、
旋回能力が高く、空中戦に優れ、登場まもない頃は
目覚ましい成果を上げたようです。
まさに欣喜雀躍するほどの活躍だったそうです。
増量タンクを付ければ、後続距離が3,500キにもなり、
関西空港からベトナムまでは十分に飛んだそうで、
これだけ長い距離になると、パイロットの疲労も極度に高まり、
ガダルカナルの戦いの時は、ラバウルからガダルカナルまで飛んできた時には
疲労で大変だったようです。

弱点もあり、防弾機能が施されていないことや、機体の強度上、
急降下の時にスピードが出せないことがアメリカ軍の知るところとなり、
多くのパイロットが犠牲になったことは事実でした。
戦後はしばらく、飛行機を製造することは、アメリカを中心とした連合国から
禁止されていましたが、
零戦を作れるほどの技術は脈々と継承され、
今や世界のトップクラスに立っているのは衆知の通りです。

このように零戦の武器に一役買っていた日特鋼ですが、
日特金属に名が変わって、今度はブルドーザーに力を傾注することになります。
最初は、どの企業もそうであったように、試行錯誤の連続ですが、
そういった過程で、国内の同業メーカーに先駆けて、
新たなアタッチメントをいち早く開発して行くことになります。
より付加価値のあるものを、また日本の風土に合わせたものを
生み出していくという努力が、日特金属に陽がさして、
脚光をあびていくようになったようです。

この企業のいい所は、製品を開発していく人財に恵まれていたことと、
社長である北耕二さんのうまい采配が功を表したということだと考えられます。
次回も続きます。

「道路造りの先端を行くのは〝現在の巨竜〟ブルドーザーである。
ブルドーザーなくしては、日本縦断道路などの建設は考えられない。
良い道路を叫ばれれば、いきおいブルドーザーの生産テンポは
早まっていく。

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1.衣食足って道路を造る
新道路交通法が実施されてから、一つの地点から別の地点に行くのに、
今までより時間がかかるようになった。
これでは何のために自動車があるのかわからないという声もきかれる。

しかし、自動車があれば目的地に早く着くという観念が
そもそも間違っているのであり、
また新道交法によって今までより時間がかかるようになったのは
今までがだいたい無理をしすぎていた何よりの証拠であろう。

そこで、これから自動車の製造を制限しないとなれば、
道を整備したり拡張したりするよりほかなく、
この意味で建設株がことしのことしの本命になるだろうというのは、
兜町の常識になっている。

さきに私が店頭の佐藤工業をあげたのも、
そうした常識的な考え方から出たものであり、
したがってそれはホンの一例にすぎず、上場銘柄の大成建設、大林組、
日本鋪道、はては店頭の飛鳥土木、藤田組、東亜道路、
国土開発、若松築港など、いずれも好況を満喫するだろうことは
まず間違いない。

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2.ダム建設現場の花形
ところで、道路とか土木とか言えば、
すぐに連想するのはブルドーザーであろう。
道の片側を交通止めにして道路工事をしている間は、
日本じゅうどこにも見られるが、
そこで大活躍をしているのは、ブルドーザーである。
電源開発の新ダム建設現場で、何十百台となく、
巨竜のごとく動きまわっているのもブルドーザーである。
土建業が繁忙をきわめれば、その連鎖作用を受けて、建設機械業が儲かるのは
「風が吹けば桶屋」式のまわりくどい論理を必要としない。
ことしは建設機械業界がフルにブームにのる年でもある。

過去における建設機械の生産数字は、
三十年までが五十億円から六十億円のあいだ、
それが三十二年には百二十六億円、三十三年度百八十二億円、
三十四年度三百三億円、三十五年度四百億円突破というスピードになっている。
そのうちブルドーザーはバカだのチョンだのと言われながらも、
しだいに舶来品を駆逐し(というよりも国産品で間に合う程度の水準に達し)、
昭和三十四年には月産平均二百七十八台、三十五年の九月には
四百四十九台と急速に伸びてきた。

本年度はおそらく月産六百台になり、
三年後には千台になるだろうと見込まれている。
強気筋では、輸出の見通しもつき出しているから、
オリンピックまでに二千台という話も出ている。
しかし、話半分にきいても、一台四、五百万円もする高価なものだから、
相当な金額にのぼるだろうことは想像がつく。

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3.ブルドーザー界の伏兵
現在、ブルドーザーのメーカーは、三菱日本重工業、小松製作所、
それに日特金属工業の三軒、生産能力の勢力分布図は大体月産二百台、二百台、
六十台、と見れば大差はない。
そのうち三菱日本重工は造船のような採算の悪い事業を抱えているので、
このブームをまともにうけることはできないが、
それでも他の造船会社よりは多少いい目をみることになろうし、
小松製作はプレス機械とブルドーザーの二本立てだから、
ことしの本命株になるであろう。

以上の二大メーカーと肩をならべて、近年グングンとのしてきたのが
日特金属である。
競馬にもダーク・ホースというのがあって、
ダークとは「暗い」「よくわからない」という意味らしいから、
青空市場(証券会社も窓口を経ない取引き)時代から
出世株をさがす趣味を持った人は別だが、
日特金属の名前を知らない人にとっては、まさにダーク・ホースであろう。

私は青空時代からこの株に注目していたので、昨年の暮れの十九日に、
この会社の株が店頭に公開された時にはすでにその正体を熟知していたが、
『ヒモチ金属とよばれたりしましてね、がっかりしますよ』
と日特金属の重役さんに言われて、
なるほどそんな呼び方もあるのかとおそれ入ってしまった。
それだけでもダーク・ホースの資格十分ではなかろうか。」

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                                                                           .
今回から日特金属工業株式会社が登場してきます。
私自身は、この会社の名前を聞いたのは、これが初めてあり、
過去に、建設機械のブルドーザーを製作していたのも初めて知りました。
このブルドーザーは、アメリカが呼称する太平洋戦争で、
飛行場の建設に活躍した代物でした。
旧日本軍は太平洋の島に飛行場を作る時は、それこそ人海作戦で
時間がかかるやり方でしたが、一方のアメリカ軍は、このブルドーザーで
短期間に飛行場を完成させていきました。

国力の違いは歴然としていました。
海軍の山本五十六大将は、過去に自分の目で
アメリカの工業力を見ていたことがあったので、
米国との開戦には猛反対でしたが、抗すべくもなく戦争に突入していきました。
アメリカは国力の最盛期に向かっていましたので、
総力戦において、はるかに日本を勝っていました。
イギリスで開発されたレーダーを持っており、
暗号も、既に開戦前に日本の外交暗号を解読していました。
日本本土とアメリカにある日本大使館との暗号による通信も
見抜かれていたのです。

ミッドウェー海戦でも、既に日本海軍の暗号を解読していましたので、
日本海軍機動部隊が来襲するこを知っており、空母二隻で待ち構えていました。
この海戦では、日本海軍はトラの子の空母4隻と航空機と熟練したパイロットを失い、
戦局に暗雲が漂いはじめることになったのです。
続くガダルカナルの戦いでも、消耗戦となりましたが、国力は如何ともしがたく、
敗退することになります。
その後、山本五十六大将も、日本海軍の暗号を傍受したアメリカ海軍によって
ブーゲンビル島上空で待機していた戦闘機により戦死することになります。

太平洋戦争は、国力の隆盛に向かっていった国と
まだ工業国としては成長しきっていなかった国との衝突でした。
このように国力の象徴の一つであったブルドーザーですが、
今や技術的には互角になっているようです。
日本国内では自動車メーカーのように、激甚な競争がなかった分だけ
タッチアップが遅れたかも知れません。
GMが辿った道を、今度はキャタピラー社が、ゆっくりゆっくりと
下り坂に向うという見方をしています。

昨今では、ブルドーザーは国内で使われることは稀になりました。
隣の中国でも、時々見かけましたが、一目で中国国産車だとわかる製品でした。
そういった意味では、技術の蓄積と完成度に時間がかかる製品でもあります。
ローテクでありながらハイテクと言ったほうがいいかも知れません。

次回も続きます。

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